一休さんについて…

―このコ〜ナ〜をつくった理由―

・委員会で地域のこと調べることになったので、“知っているようで、知らない”一休の真の姿について、皆さんに知ってもらいたかったので…。

 

―本編の巻―

一休さんについての年表

1394

千菊丸

1月1日、京都で生誕(せいたん)する。

1399

周建

禅宗の安国寺に入る。

1405

安国寺から、宝憧寺(ほうどうじ)に移る。そこで、維摩経(ゆいまぎょう)について、学ぶ。

1406

宝憧寺から建仁寺に移り、詩を学ぶ。

1409

貧しい人たちを助けようと思い始める。

1410

宗純

西金寺にうつる。

1414

西金寺をでる。

1415

琵琶湖(びわこ)の近くにある、堅田(かただ)にいる、

華叟(かそう)おしょうの弟子になる。

1418

一休

華叟おしょうに一休という名をもらう。

1420

5月20日の夜明け、琵琶湖の舟の中で、悟りを開く。それから、旅にでる。

1428

華叟おしょうが病気になり、寺に帰って看病する。

が、亡くなったので、また、旅にでる。

1432

奈良や大阪を歩く。

1467

1469

 

京都の町の近くにいたとき、応仁の乱がおきたので、薪村(たきぎむら)に逃げ、酬恩庵(しゅうおんあん)に住む。だが、7月頃、薪村にも戦いが、ひろがってきたので、大阪の南のほうへにげる。

1474

薪村へ帰り、天皇の命令で、大徳寺(だいとくじ)のおしょうになり、紫のころもをもらった。が、りっぱなお寺のおしょうになったり、りっぱなころもをもらったりすることは、自分の考えとちがっていたので、なやんだ。それで、大徳寺へは、あまり行かず、紫のころもは、一生着なかった。

1475

薪村の人々は、一休のために、お祝いの塔をたてた。

1477

9月頃、また薪村にも、戦いが、ひろがってきたので、

村の人々にかごにのせてもらい、大阪の南の小島にうつりました。そして、この年に応仁の乱が、終わり、薪村へ帰る。

1481

11月21日、薪村の酬恩庵(今の一休寺)で、亡くなり、塔の下にほうむられた。

これで、一休についての話はおわりです。見ていただいた方には、大変、感謝しております。

ここで、ちょっと、耳より情報!大晦日。実は一休寺でも、除夜の鐘をうつことができるのです!ぜひぜひ行ってみてください。